隠岐国 おき


 日本海の中の火山群島で、一般に海岸から嶮しく、耕地は少ないが良湾がある。島前・島後に分かれ、律令制では山陰道に属し下国とされた。島前は西ノ島・知夫里島・中ノ島の3島を主とし、・知夫里島・西ノ島の知夫郡・中ノ島の海土郡の2郡よりなり、島後は一島で周吉郡・穏地郡から成る。国府は周吉郡の今の西郷町にあった。北の水若酢神社が隠岐国一の宮、南の玉若酢神社が総社で、国造は同社の億岐家である。億岐家は応神天皇のとき、観松彦伊呂止命の5世の孫、十杵彦命が国造に任命されたのに始まり、現在46代目にあたる。今も同家には駅鈴2、隠岐屯倉印が当時のものとして伝えられている。『延喜式』神社は16、うち大社4と小国としては多い。大陸に対する守り神の意味をもって異国調伏祈願・神階授与などがしばしばあった。貞観年間(859〜77)、新羅の進攻に備えて伯耆・出雲・石見・長門国には、朝廷から四天王像を賜り、国分寺に祀って国防を祈らせた。鎌倉時代になると近江の佐々木定綱が地頭で、以下高綱・義清ら佐々木一族が、多くは出雲守護と隠岐守護とを兼ねた。それらが出雲・隠岐に繁延して隠岐氏・塩冶氏らの多くの家に分かれ、元弘年間(1331〜34)に互いに戦った。南北朝・室町時代にかけて一時山名氏がそれに代わったほか、佐々木一族の京極・隠岐・尼子氏が互いに争い領し、それらの守護、守護代・守護の居所は宮田城、のちの甲ノ城である。尼子滅亡後吉川・堀尾・京極の支配をへて、寛永15年(1638)の松平直政の出雲入部以来、幕府直轄領として石見大森代官が支配した元禄元年から享保5年(1688〜1720)の間を除いて、預かり領として松平氏が支配し、その隠州元方のもとに隠岐郡代、その下に島後の西郷と島前別府とに代官が置かれ、時々幕府から巡見使がきた。  遠島の地  隠岐国は遠流の地とされ、都のおもな政争の敗者が常に流されている。承久の乱に後鳥羽上皇、元弘の乱に後醍醐天皇の配流があった。江戸時代にも幕府直轄領であり、近畿・西日本からの罪人が流された。古く流人によって文化が伝えられた面も少なからず、流人の子孫と称されるものが多いが、一般に軽侮の気持ちはないようである。



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