能登国 のと


 日本海に突出し、東岸に七尾湾があって能登島を抱いていて、羽咋・鹿島・鳳至・珠洲の4郡から能登国はなっている。能登の名は、ものの出入する所を「と」ということから、その地形によって名づけられたといい、また「と」は佐渡の渡に同じく、「の」には長いという意がある。別にアイヌ語で半島を意味するともいわれている。古くは能登・羽咋二国があり、能登国造は、成務天皇の御代に垂仁天皇の皇子大入来命の孫彦狭島命が任じられ、後裔は能登臣である。羽咋国造は雄略天皇の御世に三尾君祖石撞別命の子石城別命が任じられ、後裔は羽咋公といった。国郡制度のとき、これらは郡となり、越前国に入った。養老2年(718)5月、越前国の羽咋・能登・鳳至・珠洲郡を割いて能登国をおいた。その後、天平13年(741)12月越中国に合し、さらに天平宝字元年(757)5月、旧によって能登国を再興した。能登の国府は七尾市矢田郷大字古府にあり、一の宮は気多神社である。大伴家持をはじめ、源順などで、平安時代末期には平教盛・時忠・通盛などの知行せるものが少なかった。鎌倉時代に源頼朝によって長谷部信連は鳳至郡大屋荘を与えられ、得田章通は羽咋郡得田保の地頭を与えられ、長・得田氏は能登の豪族の代表的なものになった。その後、能登の守護には吉見頼隆・氏頼父子がなったが、天授年間(1375〜80)足利義満のとき畠山義深を守護してから代々畠山氏であったが、天正5年(1577)畠山氏は滅んだ。天正9年(1581)七尾城は織田信長に帰し、前田利家に与えられた。利家は国内を平定し、城を所ノ口に移し、城下を七尾と改称した。天正10年(1582)信長変死後、秀吉は利家に加賀の河北・石川郡を与えたので、七尾に前田利勝をおいて金沢に移った。慶長11年(1606)、能登に幕臣土方氏1万石が生じ、貞享と元禄とに幕府領になった。幕府領を除いて加賀藩は町奉行をおいて行政を行い明治維新に至った。明治4年(1871)11月、七尾県を七尾に置き、能登一国および越中国射水郡を、翌年9月これを廃して、射水郡を越中国新川県に移し、能登一国は石川県の管下となった。



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